合奏協奏曲集「四季」より第3番 ヘ長調 RV293 「秋」
アントニオ・ヴィヴァルディ
吾輩はバイオリンである.名前まだ無い.吾輩は1690年の冬,北イタリアのクレモナで産まれた.89個の木片を組み合わせて吾輩に命を吹き込んだのは,ストラディバリ(1644~1737)という爺さんだった.ストラディバリ爺さんは,酒も煙草も女も博打もやらず,ただひたすら朝から晩までバイオリンを作り続ける生粋の職人だったが,そのバイオリンの音色は人々の胸を熱くし,涙をさそい,心をひきつける不思議な力を持っていた.爺さんのバイオリンにはすべからく,黄金色のワニスが塗られ「この秘伝のワニスが私のバイオリンに魔法をかけるのです」と客に自慢しているのを聞いたことがある.吾輩の木目は,特にこのワニスとなじみがよかったようで,ストラディバリ爺さんは吾輩の裏板の虎杢を満足げに眺めてから,吾輩を陳列棚の最も目立つ場所に並べた.
吾輩が身請けされるのに,そう時間はかからなかったように思う.その女衒(ぜげん)はアントニオ・ビバルディ(1678~1741)というベネチアの音楽家だった.「私は『四季』というバイオリン協奏曲を作曲中です.『春』と『夏』はすでに書き上げたのですが,『秋』を創作するには,実りの秋を溌剌と歌い上げるバイオリンの音色が必要なのです.」ストラディバリ爺さんは吾輩を棚から下ろすとビバルディに差し出した.「あなたが欲しいバイオリンはここにあります.さあ,どうぞ弾いてみてください.」ビバルディは吾輩を手にし「四季」の「春」の冒頭を弾いた.その時の吾輩の驚きといったら! かつて吾輩は森に生き,“黙して”鳥たちのさえずりを聞いていた.切り倒され一度死んだ吾輩は,バイオリンとして甦り,今,鳥のさえずりを“謳っている”のだ.
こうしてビバルディが吾輩の最初の主人となった.ビバルディはベネチアのピエタ音楽院で音楽総監督をしており,身寄りのない少女たちを集めて弦楽合奏団を主宰していた.吾輩は,団員の中で最もバイオリンの上手な少女に貸与されるという.しかし吾輩はすぐにそれが「最も上手な少女」ではなく「最も美しい少女」であることにきづいた.コンサートが終わると,ビバルディが感激したように少女にかけ寄って抱きしめキスするのを,吾輩は少女の腕の中から訝しく眺めたものだ.いずれにしても吾輩と美少女のコンビネーションは,ビバルディの創作意欲を刺激したようで,「秋」はビバルディの作品の中でも名曲中の名曲に仕上がった.
■第1楽章 へ長調 アレグロ
弦楽合奏が快活に秋の訪れを告げ,やがて技巧的な独奏バイオリンが収穫の喜びを高らかに歌い上げる・・・と,ここまでは典型的なバロック様式だが,中間部にビバルディは巧妙な仕掛けを用意していた.ビバルディの弾くチェンバロ(通奏低音)と少女の独奏バイオリンが,水辺で戯れる恋人たちのように甘く切なく絡み合う.リアルに爺と少女が手を携えていたら醜悪でしかないが,音楽の世界では崇高なアンサンブルに昇華することを,ビバルディが計算ずくだったことは間違いない.
■第2楽章 へ長調 アダージョ・モルト
なんてこと! バイオリン協奏曲なのに,バイオリン独奏が無いなんて! 弦楽合奏のロングトーンの上をチェンバロ独奏が縦横無尽に駆け巡る.ビバルディの魂胆はわかっている.チェンバロの即興演奏を少女たちに見せつけ「尊敬は愛に変わる」とほくそ笑んでいるのだ.狒々爺め!
■第3楽章 へ長調 アレグロ
収穫を祝う秋祭りは宴もたけなわ.三拍子の踊りやお囃子で若人たちは大はしゃぎ.年寄りは母家で茶でも呑んでいればいいものを,後半でビバルディの弾く通奏低音が,バイオリン独奏に絡むようにしゃしゃり出てくる.やがて農民たちは踊り疲れ,祭囃子はフェードアウトしてゆく.
「四季」の成功に気をよくしたビバルディは,吾輩にラ・プルチェッラという名前をつけた.吾輩がラ・プルチェッラ《少女》とは,いやはや・・・.年老いたビバルディに見切りをつけた吾輩は彼と袂を分かち,古今東西の名バイオリニストたちと世界を冒険することになるのだが,それはまた別のお話・・・.
(コレギウム・ムジクム富山 第27回定期演奏会)
合奏協奏曲集「四季」より第4番ヘ短調 RV 297「冬」
アントニオ・ヴィヴァルディ
私はヴァイオリニストのクミコ.これからコンサート本番なの♪・・・って,楽器ケースを開けたら,なんと私の大切なヴァイオリン《ラ・プルチェッラ》がオガクズみたいにグズグズになってた.これって過去の時空が歪んだ時になるやつです.なんでそんなことわかるかって? あのですねぇ,これゼ~ッタイに言わないでくださいよ.じ・つ・は・私,時空を操るスペック持ってるんです.というわけで,18世紀イタリアにちょっとタイム・トラベルしてきます.
えっと,ベネチアのピエタ音楽院はここかな.ここに《ラ・プルチェッラ》の最初の所有者アントニオ・ヴィヴァルディ(1678~1741)がいるはず.「こんにちわ.私はジャポネから来たクミコ・・・わあっ! アンタ何しとんがけ!」ヴィヴァルディは金槌を振り上げ,今まさに《ラ・プルチェッラ》に一撃を加えようとしていた.「いったん落ち着こうよ,ヴィヴァルディのおっちゃん!」とっさに私はヴィヴァルディを羽交締めにした.「離しとくれ,ジャポネーゼのクミコさんとやら.あの憎きタルティーニに《ラ・プルチェッラ》を渡すくらいなら,いっそわしの手で亡き物にした方がいいんじゃ!」聞くところによると,ヴィヴァルディは《ラ・プルチェッラ》を賭けて,ジュゼッペ・タルティーニ(1692~1770)と作曲対決するらしい.「わしは《四季》の《冬》で対決するんじゃが,ちっとも曲想が浮かばん.タルティーニの若造は,《悪魔のトリル》とかいう凄まじげなヴァイオリン・ソナタをぶつけてきよる.」「ちょっと《冬》のスコアを見せてくださいよ.私,力になれるかも!」
■第1楽章 アレグロ・ノン・モルト
ヴィヴァルディ「寒さで身震いする様子をヴァイオリンのソロで表しておる.」クミコ「ぜんぜんダメ.」ヴィ「いきなりダメ出しかい!」ク「伴奏に不協和音を使って,ガチガチに凍ったカンジだせばよくね?」ヴィ「不協和音? 調性を無視しろというのか!」ク「ダイジョブだって.19世紀ウィーンで友達になったシェーンベルク君なんか,12音技法とかやってるもん.」ヴィ「むむむ,そんなのアリなのか!」
■第2楽章 ラルゴ
ヴィ「幸福感あふれる美しい旋律じゃろ.わしの自信作じゃ.」ク「これも伴奏がありきたりでつまんないのよね.ヴィ「あ・・・う・・・.」ク「そう,雨だれよ.ヴァイオリンのピチカートを加えるの.外は冷たい雨だけど,家の中は暖炉でポカポカ.」
■第3楽章 アレグロ
ヴィ「雪道を恐る恐る歩くが,それでも滑って転んでしまう,という冬道の侘しさを込めた.」ク「びっくりするくらい伝わってないから.ヴィ「ぐさぐさぐさ.」ク「私の住んでる富山では“雪起こし”と言って雪が降る前にカミナリが鳴るの.」ヴィ「なんと,冬にカミナリとな.」ク「冬の嵐よ.元カレのベートーベン君がよくやってた.」ヴィ「べ,ベトベン?」ク「おっと,ベートーベンまだ生まれてなかったか.とにかく,第3楽章の後半に嵐を加えましょ.全員で32分音符を鬼のように弾きまくる.でもそれは暗い嵐ではなく,どこか春の香り・・・新たな希望よ!
「これでタルティーニの小手先の技には負けん.《ラ・プルチェッラ》はわしのものじゃ!」ヴィヴァルディはドヤ顔だ.「それにしてもクミコは発想が豊かじゃのう.」未来でアンタの曲を聴いたからだよ,とも言えず,卵が先か鶏が先か,このタイム・パラドックスというやつを考え出すと頭が脳捻転おこしそうになる.で,作曲対決はどうなったかって? 《冬》と《悪魔のトリル》では甲乙つけ難いということで,勝負は引き分けた.その後ヴィヴァルディはタルティーニと意気投合し,大酒呑んでさんざん博打を打ったあげく,借金のカタとして《ラ・プルチェッラ》をタルティーニに取られてしまった.バカなの?
でもこれでヴィヴァルディがトチ狂って《ラ・プルチェッラ》をブッ壊すこともないから,未来で私のヴァイオリンがオガクズになったりしないってわけ.任務完了ね.私はヴィヴァルディに別れを告げた.「ジャポネへ帰るのかね,クミコ?」「ううん,惑星タトゥイーンに飛んで,ダース・ベイダーと一戦交えるの.その帰りにM78星雲に寄って・・・.」
もし今日の演奏会にクミコという名のヴァイオリニストが登場したら,それは時空の冒険からひょっこり帰ってきた「彼女」かもしれません.
(コレギウム・ムジクム富山 第28回定期演奏会)
歌劇「イドメネオ」序曲 K. 366
W. A. モーツァルト
医学生れいな 呼ばれて飛び出てジャジャジャジャ~ン!
診療教授どくとるKOKI やあ,れいな姫.君がそんな言い方をするってことは,またろくでもない頼み事かな?
れいな 「ろくでもない」は余計です.実は,今度モーツァルトの「イドメネオ序曲」やるんですけど・・・.
どくとる うまく弾けなくてピンチなんでしょ,どーせ.言っとくけど,僕は困った時の便利なランプの精じゃないんだかんね.こないだも財布忘れたからってランチ奢らされ・・・.
れいな (無視)そもそも私,モーツァルト嫌いなんですよ.「羽毛でそっとなるように弾く」とか言うけど,弓の毛は羽毛じゃねーし.馬のシッポの毛だし.
どくとる じゃあ,これ知ってる? 科学誌ネイチャーに発表された論文で,モーツァルトを聴くと知能指数が8~9ポイント上がる.これを「モーツァルト効果」と呼ぶんだ.
れいな マジっすか? 私,国試の前にモーツァルト聴きまくります!
どくとる モーツァルト嫌いじゃなかったんか~い!
れいな 私がモーツァルトLOVEになったところでセンセ,「序曲」って何です?
どくとる そっから? いっそ清々しいね.序曲とは歌劇の前にオーケストラだけで演奏される小曲で,歌劇に出てくる名場面がダイジェストになってる.映画の予告編みたいなもの.
れいな ああ,あれね.面白そうなシーンをチラ見せして「どうなっちゃうの~?」てところで「続きは劇場でご覧ください」ってなるやつ.
どくとる この場合は,さしずめ「葬送のイドメネオ王《第1話》冒険の終わり」ってとこかな.
れいな はて・・・フリーレン,パクってます?
どくとる ときは紀元前12世紀,イドメネオ王は10年にも及んだトロイ戦争に勝利を収めた.ここから壮大な物語が幕をあける.
れいな ふんふん,序曲冒頭の勇ましい上行音階は,イドメネオ王がトロイ軍相手に勇猛果敢に戦ってるシーンだな,わくわく.
どくとる トロイからの帰路,イドメネオ王の乗った船が嵐で難破し王は死にかけるが,海の神ネプチューンに助けられた.ネプチューンはイドメネオ王の命を助けた代償に,息子のイダマンテを生贄として差し出すよう要求する.
れいな 中間部に突然物悲しい旋律が入ってくるのは,ネプチューンにムチャブリされてイドメネオ王が苦悩するシーンだったんですね.「ネプチューンの野郎,絶対絶命のところを助けてくれていいヤツだと思ってたら,息子を生贄だと? どんでもないゲス野郎だった.余はどうしたらいいんじゃ・・・」
どくとる そこへ息子イダマンテが颯爽と登場する.「お父さん,事情は聞きました.もう悩むことはありません.僕が喜んで生贄になりましょう.なーに,ネプチューンだかモリサンチューだか知りませんが,そんなの返り討ちにしてやりますよ!」バックでは冒頭の勇ましい上行音階が再現される.
れいな おお,王子イダマンテかっこいい,惚れてまうやろ.フツーに続きが気になります.
どくとる ところで,イドメネオはクレタ島の王なんだけどさ,「嘘つきクレタ人のパラドックス」って知ってる?
れいな う,嘘つき? クレタ人? イヤな予感しかしないんですけど.
どくとる クレタ人は「いつも必ず嘘をつく」のでクレタ人の王が「わしは戦に勝った」と言えばそれは「戦に負けた」という意味だから「嘘つきクレタ人」だと知られた時点で最強の「正直クレタ人」になってしまうんじゃないか?説.
れいな イドメネオ王,実はトロイ戦争で負けてた!?
どくとる 嵐で難破したんじゃなくて敵の砲弾で撃沈された.
れいな じゃあ王子イダマンテの返り討ち発言は?
どくとる 全部ウソ.彼も嘘つきクレタ人だからね.
れいな せっかくイドメネオ王の物語に感情移入してたのに,最後の最後で死ぬほどしょーもない情報ブッこんできましたね!
どくとる かくして序曲はフェードアウトしてゆく(てへぺろ).
(コレギウム・ムジクム富山 第29回定期演奏会用の曲目解説を改変)
地球調査員ハインリッヒの曲目解説
私は地球調査員のハインリッヒ。私の目的は,この惑星の住人の文明を調査すること。とりあえず160万年前にタイムトラベルしてみるか。なぜ160万年前かって? この惑星の住人が樹から降りて地上生活するようになったのが190万年前。30万年もすれば,さすがに近代文明が芽生え,車くらい空を飛ばせるようになってるだろう・・・オーマイガッ! まだ石器とかで動物と戦ってるんか~い! あの男の子なんかライオンに追いかけられて涙目になってるぞ。仕方ない,助けるか。時間旅行局には大目に見てもらおう。
「君の名は?」「ボクはトゥルカナ。おじちゃん,助けてくれてありがと。グゥ~(お腹の鳴る音)。」私は四次元ポケットから能登の塩むすびを出してトゥルカナ君に与えた。「これ,めちゃおいしい!」トゥルカナ君は,塩むすびを貪るように食べた。「どうしてそんなにハラペコなの?」「だってボクたちは,サルみたいに高い木の実を取れないし,ライオンみたいに強くないし,シカみたいに速く逃げられない。だからハイエナのお下がりをコソコソ食べるしかないんだ。」なるほど,この惑星の住人が,生態系の頂点に立つ前の黒歴史というわけか。
「でもつらいことばかりじゃないよ。みんなが食べ残した腸は,乾かしてはじくとビヨンビヨン不思議な音がするんだ。ウマの尻尾の毛でこすると,それはきれいな音だよ。骨髄を吸い尽くした骨の管は,ピーピー吹くと楽しいよ。動物の皮は,古い切り株に張って叩いて合奏するんだ。」「トゥルカナ君,天才だ。君がこの惑星の音楽のルーツかもしれない。」
■バッタリア(ハインリッヒ・ビーバー)
というわけで私は,160万年前の原人トゥルカナ君を17世紀ザルツブルグに連れてきてしまった。バイオリンを与えるとトゥルカナ君はみるみる上達した。「トゥルカナ君の時代を音楽にして,宇宙大統領のクミコ様に献呈しようと思うのだが。」「ボクたちの生活は戦いだから」ザルツブルガーノッケル(ザルツブルクの伝統的なお菓子)を頬張りながらトゥルカナ君は答えた。「常に死と向かい合ってる。それを讃え弔い,平和を願うために歌や踊りそして祈りがあるんだよ。」トゥルカナ君の深イイ話に触発されて,私はバッタリア《戦闘》を作曲した。
【プレストI】戦闘に備えて集合する戦士たち。太鼓を鳴らして隊列を組む。
【アレグロ】戦いを前に宴が催された。戦士は立ち上がり,口々にお国自慢を始める。様々な国の言語が飛び交い,ざわついた無調の世界となる。
【プレストII】機は熟し兵士たちは戦場に向かう。2拍子で行進する兵士たち。
【マルス】軍神マルスの武運を讃えよう。トゥルカナ君はバイオリンを弾きながら,太鼓に合わせて踊る。
【プレストIII】戦闘が始まると兵士は入れ乱れ,速い3拍子になる。
【アリア】戦士の休息。
【シュラハト】戦闘は再開され激化する。テンポが上がり戦士の息も荒々しくなる。
【ラメント・アダージョ】戦争は必ず悲劇を生む。死者を弔い平和を祈る。
この楽曲は,2005年のコレギウム・ムジクム富山 第1回定期演奏会で披露したのだが,むしろ2025年あたりの世界情勢に当てはまるかもしれない。それにしてもこの惑星の住人は好戦的だ。
■フルート協奏曲 第2番 K. 314(W. A. モーツァルト)
「トゥルカナ君,160万年前に会った時,骨髄を吸い尽くした骨を笛のように吹くって言ってたね。」「食べるところがない骨は,そうやって遊ぶしかないもん。」ターフェルシュピッツ(牛肉の煮込み料理)にナイフを入れながらトゥルカナ君は答えた。「その牛の骨を吹いてみて。」トゥルカナ君は骨の笛を器用に吹いた。美しく物悲しい響きだった。私は確信した。これがこの惑星におけるフルートの原型だ。あの男に教えてやらねば。
モーツァルトは18世紀のザルツブルグにいた。私が得意気に牛骨フルートを吹いて聴かせると,モーツァルトは耳を塞いでのたうちまわった。「響きは美しいが音程がひどすぎるよ,ハインリッヒ。フルートが大きらいになりそうだ!」私は悔しまぎれに,守秘義務のある未来の事象を言ってしまった。「でも2025年の6月15日には,きれいなお姉さんが正確な音程で美しくフルートを吹いてくれるんじゃないかな!」モーツァルトは,その言葉で気が変わったらしく,優雅で可憐なフルート協奏曲を書いた。
【第1楽章】今日はとってもいい天気,絶好の狩り日和。大きな獲物を捕まえるぞ。フルートが威勢よく音階を駆け上がる。
【第2楽章】奮闘虚しく獲物はなかった。しょんぼり。ハイエナの食べ残した骨髄をすするしかない。フルートが哀愁をおびた旋律を奏でる。
【第3楽章】今夜は村まつり。お腹は空いたけど,楽しく踊ればそれでいいや。明日は明日の風が吹く。溌溂としたフルートがオーボエやホルンと絡み合う。
■交響曲 第7番 op. 92(L. V. ベートーヴェン)
トゥルカナ君は弦楽器や管楽器・打楽器を次々とマスターしていった。「この楽器を使って,みんなで合奏したら楽しいだろうなあ!」私は,この惑星の文化に大きな影響を与えたに違いない少年の願いを叶えてやろうと思った。交響曲となればウィーンで髪をかきむしっているあの男か。私たちは19世紀ウィーンに向かった。
「聴こえは悪いし,曲想も浮かばない。神は我を見放したか!」ベートーヴェンは髪をかきむしっていた。「そんなに悲観することはないよ,ベトベンのおじちゃん。ボクたちの時代は猛獣がうじゃうじゃいて明日をも知れぬ命だけど,みんな助け合って楽しく生きてるよ。」ウィンナーシュニッツェル(ウィーン名物のカツレツ)にレモンを絞りながらトゥルカナ君が言った。「そうか,楽しい音楽の時間か!」曲が天から降ってきたのか,ベートーヴェンは爆速で第7交響曲の草稿を書き上げた。
【第1楽章】冒頭,弦楽器による上行音階が執拗に続く。「この勇ましいやつ,いつまでやんの?」今や立派なバイオリニストに成長したトゥルカナ君がベートーヴェンにダメ出しする。「調性を変えながら,ずっと繰り返そうかと。」「そんなのダメにきまってんじゃん。パレードの後は出陣だよ。付点のリズムを使って曲想をガラッと変えよう。駿馬のように疾走するんだ。」
【第2楽章】「神秘的な安らぎに満ちた旋律で聴衆の心を鷲掴み・・・。」「わかってないなー,ベトベンのおじちゃん。争いは哀しみを生む。第2楽章は葬送行進曲。テンポはアレグレットで粛々と。」「わしの渾身のアダージョがぁっっっ。」「第9交響曲あたりにとっといたら?」
【第3楽章】舞踏形式の3拍子と管楽器によるコラールが何度も繰り返される。「ベトベンのおじちゃん,しつこい性格でしょ。第1楽章の上行音階といい,第3楽章の繰り返しといい,結構くどいよ,女の子に嫌われるよ。」「そ,そかな。」「だから,一生結婚できな・・・。」私はトゥルカナ君の口を塞いだ。「それ,言っちゃダメなやつ!」
【第4楽章】時間旅行法で許されるトゥルカナ君の滞在期限が迫っていた。フィナーレは,とびきり楽しい音楽の時間にしよう。私もチェロでノリノリにスウィングするぞ。となりでバイオリンを弾くトゥルカナ君の瞳は,心なしか潤んでいるように見えた。
私はトゥルカナ君を160万年前に送り届けた。いたいけな少年を弱肉強食の無法地帯に置き去りにするのは胸が痛んだ。「でもボクは,家族と一緒のこの世界が好きだよ。ベトベンのおじちゃんに伝えて。『楽しい音楽の時間』の次は『人類みな兄弟』がキャッチーだって。」「わかった。彼は第9交響曲で燻ってたから,そのコピーは刺さると思う。」トゥルカナ君は,私の宇宙船が四次元空間に入る直前まで大きく手を振っていた。「たくさん,ご馳走ありがと。一番美味しかったのは,最初に食べたハインリッヒおじちゃんの塩むすび!」この惑星の住人は・・・泣かせる。
もし本日の演奏をお聴きになって,温かい塩むすびが空腹を満たすほのぼのとした幸福と平和を感じたら,それは160万年前を健気に生きた,ひとりの少年からの音楽の贈りものかもしれません。トゥルカナ君の化石は,1984年にアフリカ大陸のケニアで発掘され,上野の国立科学博物館にひっそりと展示されています。
地球調査員:ハインリッヒ=廣田・ビーバー
(コレギウム・ムジクム富山 第30回定期演奏会用の曲目解説を改変)